ロバート・ブラウニングの詩 
                      ストップフォード・ブルック著

                                                          小山文夫訳 

 

第1章 ブラウニングとテニスン
 アポロンの山であるパルナソス山には二つの頂がある。この頂に1830年から1890年までの60年間、二人の詩人が座つてゐた。この気高い頂にふさわしい登攀を試みる者はついに一人も現れなかつた。当時、下方の低い丘の上で多くの新人詩人が様々な楽器で様々な主題を多彩な方法で歌つてゐた。彼らには聴衆があり、ミューズの神々もまたその訪問者であつたが、ブラウニングとテニスンが座り、谷間越しにお互い微笑み合つていたその威厳のある頂上に敢へてまともに挑む者は誰一人としてなかつた。
 二人とも同時にスタートを切つてゐた。1832年頃、その時代の源泉を開いた新しい高鳴るやうな世界の波は、彼らの生涯の終わりまで彼らを駆り立て続けた。詩の世界が周辺で変化して行く一方、二人の詩人は詩の新しい流れを作り、他の流派に影響されないままそこに留まつてゐた。ブラウニングとテニスンはマシュー・アーノルド、クロウ、ロゼッティやモリス、またその他の誰のものとも違つてゐた。ブラウニングはブラウニング夫人とも全く違つてゐた。彼らの中に起きた変化は、第1に彼らの人格の内的成長、第2に彼らの芸術的な技術の向上、そして第3にその力がゆつくりと衰へたことによる。彼らは他の詩人たちと比べても、彼らを囲むこの世の変化に影響されなかつた。彼らは中心となるテーマをもつて始めてゐたが、最後までそのテーマを持ち続けた。彼らの方法、彼らの道具、人と自然のこの世にたいする彼らの感じ方、神と人間に対する思ひと彼らの関係は、二人ともそれぞれ異なつた見解を持つてゐたが、この世の変化と共に変わることはなかつた。しかし、この点ではテニスンよりもブラウニングの方がより当てはまる。当時の政治的社会的出来事は"Maud"や "Princess" に見られるやうにテニスンの心を動かしたが、彼の見方はこの時代のものとは違つてゐた。そのことは彼の以前の働きや作品からも予想されたことである。クロードやアーノルドを深く苦しめた科学や批評のその当時の新しい運動がテニスンをも苦しめたが、それ程深刻にといふほどではなかつた。彼は古い彼の概念を攻撃されしばらく動揺したが、それに屈服することは決してなかつた。彼を動揺させたあらゆる懐疑に対して、彼は自らに腹を立て、決して翻すことはないと堅持してゐた昔からの彼の思ひを掻き乱した科学と批評に対しても立腹した。ついに彼は In Memoriam を書いた当時の自分に戻り、いやもつと言ふと彼が執筆を始めた時の所へ戻つて、安らぎを得た。
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 ブラウニングの思想にはこのような休止期間はなかつた。ごく数カ所を除いて、彼の詩から神学・宗教にも大いに修正を加へてゐた時代、彼が生きてゐたその時代の社会的変化や科学的・批判的な運動の変化に気づいてゐたとは言ひ難い。1890年の Asolando は1835年の Paracelsus と同じ和音を、もう少し弱まつて響かせてゐた。

 しかし、この気高い違ひと魂の一致にもかかわらず、ブラウニングとテニソンは彼ら自身においてはひとつ、歌においては違つてゐたと言へる。二つの人格、二つの音楽、芸術における二つの方法、二つの想像力があつた訳ではなく、この二人に宿つてゐたかういつたものが、より明確だつたり、対照的であつた訳ではない。また、この書の導入の目的はこの対比を明らかにすることであり、ブラウニングの詩と詩人としての位置おけるある特別な要素をよりはつきりとした光のもとに置くことである。

  Ⅰ.彼らの公的な宿命は非常に異なつてゐた。1842年、テニソンは詩集2巻をもつてその地位を確立した。1847年の Princes は彼の名声を高めた。1850年、In Memoriam

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彼は彼と同時代の全ての詩人たちの上に立ち、英語圏の広域において鑑賞され、読まれ、愛されたと言はれてゐる。今やその成功と名声は当然のものであり、賢明になされた。どらも持ち堪えた。また持ち堪えるだらう。彼の音楽とそのやり方を掴んだ模倣者たちの群れは彼が生きてゐた頂へと繋がる彼の木立と岩棚へ群がつた。パルセサスにある彼の頂は混み合つてゐた。

 彼の兄弟詩人の場合は全く異なつてゐた。少数の澄んだ眼識のある者だけが1835年に現れた Paracelsus を好んで読んだ。ブラウニングの最初のドラマである Stradfford には少しだけ人気期間があつた。少しだけ上演された。あの奇妙な天才児である Sordello が誕生したとき、その最初のページを読まうとした者たちは理解不可能と言つた。Sordello だけでなく、In Memorium においてさへ意味不明と言はれた位で、その当時の批評家たちは、今より知性は劣り、忍耐力も親切心もなかつたやうに思へる。

 それから、1841年から1846年にかけて、ブラウニングは Bells and Pomegranates といふ名の下に一連の様々な詩やドラマを時をおいて出版してきた。かういつた作品なら、詩が好きなどんな読者の心をも掴んでゐたであらうと、人は思ふかもしれない。かういつた中には Pippa Passes, A Blot in the 'Scutcheon, Saul, The Pied Piper of Hamelin, My Last Duches, Waring といつた様々な詩があつた。