サウロ
小山文夫訳
1
アブネル言ふ「ついに汝、来たれり!
我言ふ前に、汝語る前に、
わが頬にキスを! わが平安を願へ!」
かくて我それを願ひ、彼の頬にキスをせり。
かくて彼言ふ「おゝ友よ、汝の顔色を窺はんために
國王、使ひを使はしてより
我ら飲み食ひせじ
國王、健やかにゐまし給ふと
彼の幕屋より汝喜び溢れて
帰りくるまで
我ら蜜にて唇を輝かせ
水にて潤そうや
黒き幕屋の真中、静寂より
三日の間
祈りと讃美の音ひとつ
汝の召使ひたちには洩れ出でず
サウロと御霊、戦終え
勝利に力抜け
君主、生に沈むしるしなり
2
されど今、わが心は躍る、おゝ愛する者よ
神の子よ、汝の優美な金髪はかの露に濡れて
あの手折れる菖蒲(あやめ)の花は尚も生き生きとして青く
汝の琴弦に絡み纏(まと)ふ
あたかも荒野が砂漠の地に激しく拷問を加へやうと
荒れ狂うことなどなきが如し!」
3
かくて我、作法に則り
わが先祖たちの神に跪き
しかして起き上がり
粉と焼けた砂の上を奔りけり
幕屋は紐が解けてあり
我、遮る槍を抜き上げ、身を屈め下を通れり
全て枯れ果てし滑らかな草の上
四つん這ひにて次の間に
手探りして進み行き
ついに幕屋の裾の開けあるを知りぬ
しかして今一度、我祈れり
かくして我裾を開け、入りぬ、恐れることはなかりき
されど、言へり、「ここに汝の僕、ダビデあり!」と
しかして返答はなかりき
初め、我、暗闇のほか何も認めざりしが
程なくしておぼろに見たり
黒そのものよりも黒きあるものー
巨大な直立せるもの
大天幕を支へる大黒柱
徐(おもむろ)に姿となりて
寄りかかる人影顯れり
何にも増して厖然(ばうぜん)にして黝然(さうぜん)なり
その時、日差し、幕屋の屋根を貫いて
サウロを示せり
4 以下準備中